歌詞鑑賞

 

汚れちまった悲しみに   中原中也

 

ひとくちメモ  (http://zenshi.chu.jp/mobile/?p=817

「汚れっちまった悲しみに……」の中で
「たとえば狐の皮裘」と 中原中也は 古風とも、モダンとも受け取れる
比喩を用いています。 皮裘は「かわごろも」と読みます。

中国では古来、 狐の皮毛で作った衣服を尊重し 高貴な女性が着用するものとされています。

詩句に沿って読むと では これはだれが着ていたものでしょうか。


「汚れっちまった悲しみ」の主体は だれだったのでしょうか。

これを 長谷川泰子と読む解釈と 中原中也その人と読む解釈とが 錯綜しています。

「狐の皮裘」は わかりやすく言えば ミンクの毛皮とか 豹の毛皮とか、のような
女性が身に着ける衣裳……。

 

だから 「汚れっちまった悲しみ」の主語は 中原中也から去った女 長谷川泰子である
と読むのは自然ではあります。

けれど 「汚れっちまった」と わざわざ促音便を用い(歴史的表記は「汚れつちまつた」です)

北原白秋に似せた調子で歌われたこの詩を 長谷川泰子の悲しみに限定するのも無理があります。

たとえ文法的に 泰子の悲しみを歌ったものだとしても 泰子の悲しみを通じて
泰子の悲しみにかぶせるように 中也自身の悲しみを歌っている。

 

世間はそのように受け止めてきたのでありましたし、

──詩人が「汚れっちまった悲しみ」と歌う時、それは彼 のあらゆる個人的な事情を離れて「汚れっちまった悲しみ」 一般として感じられるのである。

と、大岡昇平が読むように 錯綜を超えてこの詩を味わいたいものです。

 

ひとくちメモ その2

──倦怠(けだい)の謎

「汚れつちまつた悲しみに……」は、繰り返し繰り返し読んでも最後のところで謎が残り、

いったんはその謎を追求することを止めて、しばらく放っておくと、ふっと、

あっ、これだ、なんて謎が解けた瞬間があるので、また、思い出して読み返し、

そうして、もう一度、読んでみると、こんどは、ほかの謎が浮かんできて……

 

というわけで、ここで第3連第4行の「倦怠(けだい)のうちに死を夢む」の謎に迫ってみます。

 

そもそも、初めてこの詩に触れ、この行にさしかかって、ケンタイではなくケダイなんだ、

何故かな? と疑問を抱いたままそのままにしておきました。普通は「けんたい」と

読むところを「けだい」と中原中也は読ませます。何故でしょう?

 

多分、詩人は、倦み、飽きる、とか、やる気が起きない、気だるい、怠惰な気分、

とか、倦怠感やフランス語のアンニュイ(=倦怠)とか、一般に考えられる

ケンタイ=倦怠と区別したかったのではないでしょうか。

 

詩集「山羊の歌」を注意深く読んでみると、倦怠=けだいに通じる詩句が、

詩人が詩人としてやっていける! と自認した作品である「朝の歌」の中に

すでに現れているのを発見できます。

 

第2連の

小鳥らの うたはきこえず
空は今日 はなだ色らし、倦(う)んじてし 

人のこころを
諌(いさ)めする なにものもなし。 です。

 

「朝の歌」と「汚れつちまつた悲しみに……」は作られた時期が違うし、

歌われた状況も違うし、歌われている感情もまったく異なりますが、

「倦んじてし」と「倦怠のうちに」とは、通じるものがあります。

 

中原中也の、自他ともに認める会心作「朝の歌」に、すでに、

「汚れつちまつた悲しみに……」の「倦怠=けだい」に通じる感情が歌われて

いたのですが、詩集「山羊の歌」の「少年時」にある「夏」には、

よりいっそう「倦怠=けだい」に近い感情が歌われます。

 

第1連冒頭行の、 血を吐くやうな倦うさ、たゆけさ

同第3行の、 睡るがやうな悲しさに、

同第4行の、血を吐くやうな倦うさ、たゆけさ

第2連最終行の、
血を吐くやうなせつなさに。

最終連最終行の、
血を吐くやうなせつなさかなしさ。

 

この詩では、倦怠の「倦」を、倦うさ、と読ませています。そして、

この、倦うさに、たゆけさ、悲しさ、せつなさ…を並列し、これらに、

ほとんど、同格の、ほとんど、同じ意味を込めているのです。

 

 

たゆけさ、せつなさ、悲しさ……は、倦うさの、他の表情に過ぎず、

根は同じものなのです。この詩にはありませんが、むなしさもこの中に

入っておかしくはないでしょう。

 

さくら散る  草野心平

 

 

(増田 博 http://alma-mater.jp/commentary/1679/より抜粋) 

 

 「さくら散る」は、能舞台に桜の木があり、天井から花びらが音もなく舞い落ちてくるばかりの世界である。平仮名表記の文字の配置が、さくらの花びらの空間に舞い散るさまを巧みに表現している。

 

 登場人物が誰もいない、ただ花びらが舞い落ちてくるばかり。光と影が入り交じり、雪よりも死よりも静かに舞い落ちる花びら。光と夢が入り交じり、ガスライト色のちらちら影が生まれては消え、花が散る。永遠に、とも思える桜の落花の中で東洋の時間が流れ、さてどんな物語がこれから展開していくのであろうか。

 

 

 夢をおこし、夢をちらし、はながちるちる、おちる、まいおちる。

 

「日本の時間」とせずに「東洋の時間」としたのは、中国を第二の母国としていた心平の視野からではないだろうか。

 

 この詩がつくられた敗戦後間もなくの時期においても、日本、中国という境を超えた「東洋」に生き続けた心平のこころではないか。

 

 

 ところで、大滝清雄という詩人の「草野心平の世界」という著書によれば、心平の父は歌舞伎好きで、彼をよく歌舞伎見物に連れて行ったらしく、後年、心平はよく歌舞伎の名台詞の声色をよくしたらしい。多田武彦さんも幼少時、祖父に歌舞伎や浄瑠璃見物によく連れて行かれ、これらに親しんでこられた。こうしたことが、心平と多田さんの美意識に重なり合うものがあったのかも知れない。

 

 

 「さくら散る」の楽譜を見てみよう。

 

「ちる ちるちるおちる」に続いて、5連符による「まいおちるまいおちる…」という流れが楽曲のほぼ全体にわたって通奏低音的に歌われ、これをぬって「はながちる 光と影がいりまじり 雪よりも 死よりもしずかにまいおちる」とメロディーが唱される。

 

 それは決して一本調子な進行ではなく、多田さんはデュナミーク、アゴーギグ、コロリートといった西洋音楽の装飾性の駆使を要求しておられるように思われる。

 

このことは、この詩を動画の絵巻物と考えると、雪のような死のような「静」の世界の中で「動」を示すさくらの花びらが散るさまは常に均一の散り方ではなく、向こう側が見えないぐらいに大量に舞い落ちてくる瞬間もあれば、わずかの花びらがひらひらと舞い落ちる瞬間もあることを示している。  

 

 

 そしてこのように生と死とが隣り合わせになったような世界では、時間の進行も止まっているように感じられるが、曲の中間部の「東洋の時間のなかで 夢をちらし 夢をおこし はながちる」の部分では時間が動き出している。この後にはどんな絵巻が展開されるのであろうか、と。

 

 かくしてまた、「まいおちるまいおちる…」が poco a poco dim して終熄を迎えるかと思った瞬間、大量の花びらが舞い落ちてきて、f で「まいおちる」と歌って曲が終わる。

 

 

 その絵巻が終わった瞬間、そこにはなにもない空間だけが残り、現実世界に戻る。陶然とし呆然としていた聴衆はわれに返り、嵐のような拍手を送る。

 

この組曲の歌い納めの鮮やかさ。

 

 

 

金魚   草野心平

 

 

増田 博 http://alma-mater.jp/commentary/1679/より抜粋)

 

多田武彦さんは、この組曲を作曲するに際し次のように言っておられる。 

「セザンヌやモネの好きな私の心に、モネの画風に似た『金魚』がまず浮かんだ。」と。

 

・  あをみどろのなかで

 

・  大琉金はしづかにゆらめく

 

・  とほひ地平の支那火事のやうに

 

・  支那火事が消えるやうに

 

・  深いあをみどろのなかに沈んでゆく

 

そして多田さんはさらにこう言われる。

 

 「作曲するに当たって、私はこの詩に心酔し切っていた。青みどろの中の金魚を眺めていると、それがいつの間にか支那火事のように見える。そしてその支那火事は、と想像した私の背中にふと快い戦慄が走った。

 

何という見事な表現だろうと思った。この詩一つが、私にこの組曲を作らせたといっても過言ではない。」

 

 

 あおみどろ = 接合藻類ホシミドロ科に属する淡水緑藻。藻体は糸状、毛髪状で細く長く、田や池など富栄養の水中に生える。触るとぬるぬると滑る感触がある。

 

 大琉金 = 琉金。金魚の一品種。普通観賞用として飼育し、赤色または赤と白との斑のものが多い。尾の鰭はよく発達している。江戸時代に琉球から渡来した。

 

 支那火事 = 中国の大平原のはるか遠くに眺める野火。支那は外国人(中国人以外)の中国に対する呼称。

 

 

 心平は書展を開いたり、画集を出したりして、書画をよくする人でもあったが、この詩は、池にゆらめく大琉金の印象を絵画的に描いた詩である。

 

また、多田さんは言う。

 

「(音楽の)三大要素の一つである和声は、画で言えば色彩」だと。さらに続けて「この組曲もずい分多くの名演をしてもらったが、ただ、作曲家の心残りは、たとえば金魚の冒頭や再現部。あるいは、平行4度の部分など、色彩感を強調したいところでハモってくれないこと。

 

 ハーモニーは、音程を正しく歌っても出てこない。他のパートが微妙にゆれ動くと完成しない。要は、作曲家の描いた色を、メンバーのみんなが知っていないと、瞬間瞬間で即応出来ない。」と。(1990(平成2)年1月ごろの言葉)

 

 

 曲は冒頭、7の和音で始まり、和声が同度―上行―下行と並進行し、複雑微妙な音を連ねて、濃いみどり色のあおみどろの中で赤い琉金がゆらめくさまを表現している。そして、遠い地平の支那火事のように、その野火が消えていくように、低声部の二声が平行四度進行で上行、下行しながら「深いあおみどろのなかに沈んでゆく」とフェード・アウトする。

 

 この間、各声は音階的進行(順次進行)をし、跳躍的進行をしない。

 

これがあおみどろの中にいてその形もはっきりしない琉金がゆっくりとたゆたっている様子をよく表している。

 

・  合歓木の花がおちる

 

・  水のもに

 

・  そのお白粉刷毛に金魚は浮きあがり

 

・  口をつける

 

・  かすかに動く花

 

・  金魚は沈む

 

 

 あおみどろと大琉金の水中世界から、合歓木の花が咲き水面に向かって落ちていく空間へと場面が変わる。合歓木は原野、川原、雑木林などの日当たりのよいところに自生し、6月下旬から8月上旬にかけて南から北へと順次開花する(京阪神や東京では7月下旬ごろから)。

 

 花は枝先に球形をなし、雄蕊(ゆうずい 雄しべ)はあけぼの染めのようなぼかしの淡紅色で美しい。これが多数糸状に立っていて、まるでお白粉刷毛のようにみえる。

 

 お白粉刷毛のような合歓の花が水面に落ちると、大琉金は餌になる虫が落ちてきたのかと思って、いや、そんな散文的な情景ではなく、自分をもっと美しく装ってくれる化粧刷毛が落ちてきたものと思って、水面に浮かび上がり、そっと口をつける。合歓の花がかすかに動く。

 

 それが餌になる虫ではないと分かって、ではない、美しく粧いを整えて、琉金はまたもとのあおみどろの中に沈んでゆく。

 

・  輪郭もなく

 

・  夢のやうに

 

・  あをみどろのなかの朱いぼかし

 

・  金と朱とのぼんぼり

 

 

 大琉金はふたたびあおみどろの中で朱いぼかしのようにゆっくりとたゆたう。

 

くっきりとした輪郭もなく、夢のように。それはまるで金と朱とのぼんぼり。

 

ああ、なんという艶めかしくも美しい情景であることか。まさに一幅の音楽的絵画である。

 

 

 

天  草野心平

 

 

(  草野心平自身による解題)

 

『天という題字は自分にとって空恐ろしい。 

けれどもそれには少しばかり理由があった。

 

数年前、私の「天」に就いての或る人のエッセイが詩の雑誌にのったことがあった。私はそれまで天といふものを殊更に考へたことはなかったのだが、ふと、私も気まぐれから、従来の詩集をひらいて天のでてくる作品に眼をとほした。

 

あるあるあるある。

 

 私のいままで書いた作品の約70パアセントに天がでてくる。或ひは空とか星雲とか天体のさまざまな現象などが。実をいふと私はぽかんとあきれたかたちだった。富士山の詩を私は永ひあいだ書いてきたやうに思ふが、もともと富士山などといふものは天を背景にしなければ存在しない。

 

 この詩集に収録した作品にも矢張り、その70パアセント位に天がでてくる。

 

雲の動きほど時間を意識させるものは私にはない。時空混淆の場としての天、それを背景にして、これらの作品は或る程度なりたってゐるやうに思はれる。けれども天をぢかの対象とすることは私には重すぎることだ。

 

 だから天といふ題名をもってきたことに就いては一人の方の私はも一人の方の私を幾分さげすんでもゐる。』

 

・  人間も見えない

 

・  鳥も樹木も  

 

 (以下、増田 博 http://alma-mater.jp/commentary/1679/より抜粋)  

 

「時空混淆の場としての天」と心平は言う。時間と空間とがいりまじった、心平の想像力による場であり、この場を見つめ、把握しようとする。

 

 この詩では、心平はその想像力によって天の高みに上がり、下界を見おろしている。そこからは山並みも平野も川もすべて平坦な地表に見えるだけで、もちろん人間も見えない、鳥も樹木も。

 

 どこまでも広がる海も青い平らなブリキ板のようにしか見えない。富士山だけが五センチの出臍のように突き出ている。そこはどのような「場」だろうか。

 

・  あんまりまぶしく却ってくらく

 

・  満天に黒と紫との微塵がきしむ

 

・  寒波の縞は大日輪をめがけて迫り

 

・  シャシャシャシャ音たてて

 

・  氷の雲は風に流れる。

 

 難しい語句はない。この詩の鑑賞者はめいめいに自分の感性で想像をふくらませるほかない。心平に寄りすがって自分を心平のいる高みにまで引き上げると、なにか見えてくるものがあるのではないか。

 

 この詩の主人公(主題)は富士山であり、その存在と背景にある天とを、多田さんはシンコペーションとアクセントを多用しながら速いテンポで歌わせている。

 

これに対して、存在(富士山)に対する非在(「人間も見えない。鳥も樹も。」)の短いフレーズは弱声で、8度平行進行によるやや遅いテンポで歌うことによってこれを印象づけるとともに、存在(富士山)を強調している。

 

 心平は、科学の世界と詩の世界を相反するものとは見ていないようである。

 

科学者もまた詩人であり、詩人もまた科学者である、そういう思念を心平は持っていたと言われている。

 

 

 

 雨  草野心平

 

 

 

天」と題した48編からなる、昭和28年刊行の詩集所収。

 

「原子」「天」「地球」などの詩と並んで「エリモ岬」もこの中にあり、富士山の詩の内の4編も元来はこの詩集にあった由。

 

 

    「志戸平温泉」とは岩手県花巻市の花巻温泉郷の一つ。

 

 

 

ネットに次のような記述を見つけた。

 

http://japanese.hix05.com/Literature/Kusano/kusano18.yoru.html

 

 

 

夜の天:草野心平の詩集「天」から

 


詩集「天」のあとがき「天に就いて」の中で、草野心平は次のように書いている。「私がいままで書いた作品の約70パーセントに天が出てくる。或ひは空とか星雲とか天体の様々な現象が。」

続けて次のようにも書いている。「雲の動きほど時間を意識させるものはない。時空混交の場としての天、それを背景にして、これらの作品は或る程度成り立ってゐるやうに思はれる。けれども天をじかの対象とすることは私には重過ぎることだ。だから天といふ題名を持ってきたことについては一人の方の私はもう一人の方の私をさげすんでもゐる。」

こう書いたように、天は草野にとってインスピレーションのもっとも大きな源泉となった。そんな天を草野は直接に書くことはしない。それは視界を区切る空であったり、そこに浮かんだ雲であったり、自分に吹き付ける風であったり、また夜の闇の広がりであったりする。

詩集天はそんな天の諸相について、様々な角度から歌ったものだ。
 

    

  

十一月にふる雨   堀口大學

 

 

十一月はうらがなし、  世界を濡し雨がふる!

 十一月にふる雨は  あかつき来(く)れどなほ止(や)まず!

 

初冬の皮膚にふる雨の  真実(しんじつ)冷めたいかなしさよ!

  されば木の葉も堪へもせで  鶫(つぐみ)、鶉(うずら)も身ぶるひす!

 

十一月にふる雨は  夕暮れ来(く)れどなほ止(や)まず! 

 されば乞食のいこふ可べき  ベンチもあらぬ哀(あはれ)さよ!

 

十一月にふる雨に  世界一列ぬれにけり! 

 王の宮殿(みやゐ)もぬれにけり 非人の小屋もぬれにけり!

 

十一月に降る雨は  夜(よる)来(きた)れどもなほ止(や)まず!

 

逢引のみやび男(をとこ)もぬれにけり、 みやび女(をんな)もぬれそぼちけり!

 

 1919年 堀口大學 27歳の時の処女詩集「月光とピエロ」の中の

   「秋  今のわが母に捧ぐ」と題する10編の詩群の第1

                      <堀口大學全集 1(小澤書店)より>

 

              

故地の花   尾崎喜八

 

           いぶきじゃこうそう (伊吹麝香草)

滋賀県の伊吹山に多く自生する。 花は枝の先端部に集まって密につく。 全草に麝香(じゃこう)のような香りがあり、別名を百里香(ひゃくりこう)といい、香りが百里の遠くまで届くという。 6~7月の開花期に、地上の茎葉をそのまま刈り取り、水洗いした後に陰干しにして薬草とする。 発汗作用があり、かぜに効き目があとる言われる。              

 かけす   尾崎喜八

  

 詩集「花咲ける孤独」所収。終戦後約7年間の八ヶ岳山麓滞在中(50歳後半)の作品  

 

    かけす:http://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/detail/photo/kakesu/kakesu.jpgスズメ目カラス科。全長 3236cm。アフリカ北端部とヨーロッパからヒマラヤ山脈の北部を経て東アジアまでの地域,およびインド北部から東南アジアの大陸部に分布する。日本では屋久島以北の林にすみ、秋冬は低地でも見られる。

  「じぇーじぇー」としわがれた声で鳴くため、英語ではJay と呼ばれる。ふわふわした飛び方。耳障りな鳴き声をあげたり、他の鳥の声真似をするという特徴を持つ事でも知られ、時には救急車の音や人語を真似る事もある。

   

 遠い岬  北原白秋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  三浦市三崎町

 

  1 遠(とほ)い岬(みさき)に   燈(ひ)のつくころは、 

なぜか、目先(めさき)が   ちらちらと。 

2 そこの岬か、  幾浜先(いくはまさき)か、 

とても、ちらちら、  宵燈(よひあかり)。 

3 遠(とほ)い岬に  燈(ひ)のつくころか、 

浜にちりちり、 宵花火(よひはなび)。 

<岩波書店刊 白秋全集第29巻(歌謡集1)より> 

 

北原白秋は実に無数の作品を残している。岩波書店刊白秋全集がその作品すべてを網羅しているのかどうか分からないが、この全集だけで39巻あり、各巻約600頁。 

この全集には、詩集、歌集、詩歌ノート、詩文評論、歌謡集、童謡集、小説などが収められており、「遠い岬」は歌謡集の中の「風虹(かぜにじ)」という表題による9編の作品の一つである。白秋自身の解説によれば、大正13年ごろに相州の三浦三崎に滞在したころに作った多くの「民謡」の内の一作品であるとのこと。

 

梅雨の晴れ間    北原白秋

 

 この詩では白秋は自分の懐かしさだけではなく、梅雨の晴れ間に客席の雨水を処理して何とか芝居公演を成功させようとする田舎芝居の一座を温かく見守っている。町をあげて歓迎した田舎歌舞伎の一座。本来、平土間であるべき韮畑が梅雨の雨水でどうしようもない。やむなく主役の一人である狐忠信を演ずる役者が、水車を使って一生懸命雨水を汲み出している。最初は赤い隈取りをつけていた役者も、最後は汗のためその紅隈がとれてしまう。

 古い蓆の芝居小屋に降り注ぐ太陽の輝き、それは廃れ行く柳河のひと時の輝き。水を汲み出す水車が回り舞台であり、水車を回す役者の足取りは狐六法である。そして旅芝居一座の去った後の柳河は、祭りの後の寂しさが漂う。廃れ行く柳河のひと時の賑わい。

 ( http://www55.tok2.com/home2/kimiaki/link/yanagawa.pdf より抜粋 )

   

また来ん春   中原中也

 

明治40年(1907年)山口県生まれ。5人兄弟の長男。

 10代半ばに詩作を始め、地方新聞に掲載された。京都での旧制中学時代から同棲していた女性を、東京に移った後親友の小林秀雄に奪われたり、弟2人が若死したりの恵まれない環境の中で詩作を続けた。やがて幻聴や強迫観念に襲われたり腎臓炎を患ったりするが、26歳で遠縁の女性と結婚。しかし29歳の時に長男を2歳で失い精神のバランスを失う。翌年心身疲労、痛風、視力障害を訴えつつ脳腫瘍にて死亡。

 詩集「在りし日の歌」の冒頭に「亡き児文也の霊に捧ぐ」とある。

     (新潮文庫「中原中也詩集」、角川文庫クラシックス「在りし日の歌」から抜粋)

 

 

  エリモ岬  草野心平

 

 早稲田大学のあるOBがこの曲について調べたところ、下記のような経過が判明したそうです。

北斗の海は早稲田大学グリークラブが多田先生に委嘱して作曲していただいた作品で、196812月早稲田大学グリークラブ第16回定期演奏会にて初演されておりました。ただしこの時点では4曲目の『海』はまだ作曲されておらず、1977年にこの曲が加わり、改訂版として1977年7月の第26回東西四大学合唱演奏会にて、早稲田グリーが初演した、との記録が確認できました。

  ★ ウルトラメール ・・・ ウルトラマリン ultramarine  群青色 のことか? 

 ★  森進一が 「襟裳岬」 を歌ってレコード大賞を取ったのは 1974年 のことだった。 ヒットした当時、襟裳岬のあるえりも町の多くの人は、サビに登場する 「襟裳のは何もない春です」 という歌詞に、反感を持った。 しかしその荒れ果てた海岸線に町民が苦労して木を植え、昆布の再生に成功した話がTV放映されたこともあり、やがてこの歌が襟裳の知名度アップに貢献したと認められた結果、悪感情は消えて、森はえりも町から感謝状を贈られた。1997にはえりも町にこの歌の歌碑が建設され、その記念に同年の紅白でも歌唱された。

 

    黄鳥 (コウライウグイス)
    黄鳥 (コウライウグイス)

富士山作品第壱   草野心平

 

 この詩は全体としての解釈に難しさはないと思いますが、耳慣れない言葉がいくつか出てきてちょっと戸惑います。 このうちの、「楽器のすべて」「大雪嶺」「黄鳥」「三つの海」 の解釈について一橋大学OBの男声合唱団 「マーキュリー」 のHPに 「富士山のなぞ」 という面白いやり取りが載っていて参考になると思いますので、無断でリンクします。

 お暇な節に是非お読みください。

http://jfn.josuikai.net/circle/mgc/kenkyu/ongakukenkyu.html

 

 また「標野(しめぬ)の人」 という言葉も出てきますが、標野とは広辞苑によれば、皇室などの所有する原野で一般人の入れないところとあるから、そこにいる人なら高貴の人となるのでしょうか。庶民だけでなく、貴人も歌っているということなのでしょうか。少し分かりにくい。(「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」という額田王の歌なら分かりますが。)

 

 そしてまた、「口偏に卸」という漢字で「くわへて」と読ませている点。確かに広辞苑の 「くわえる」 の所に 「銜える」 と並んでこの漢字が表示されていますが、手許の中型漢和辞典には入っておらず、私のPCの語彙にも含まれていないので、この文章が書きにくくてしようがありません。読めるが書けないという漢字はたくさんありますがこの文字は私の頭の中では 「読めなくて書けない」 というカテゴリーに入りそうです。

 

 

 

 母の夢   百田宗治

 百田宗治は、1893年大阪市西区の商家の末っ子に生まれた。本名、宗次。 27歳で東京に移り、雑誌『解放』の編集者をへて詩誌『日本詩人』の中心的同人となった。大正末年『日本詩人』が分裂して、百田宗治は詩誌『椎の木』の主宰者となった。 そこには三好達治・丸山薫・北川冬彦・伊藤整ら若手の詩人たちが集まり、百田は良き指導者であった。しかし、太平洋戦争前後の彼は児童の作文教育に傾倒し、また、一時陸軍報道班員として中国に滞在するなどして詩から遠ざかり、戦後札幌移住、のちに千葉県の岩井に転居、1955年肺がんのため永眠した。63歳であった。

 初期の彼は時代の思潮に敏感に影響された詩人だったといえよう。その出発は白秋風の抒情詩だったが、まもなく民主主義運動の文学的あらわれである口語自由詩の運動に加わる。やがてプロレタリア文学の流れに参加し、世間からは「民衆派」と呼ばれた。だが、そうした立場での彼の詩作は30歳を越えて行き詰まり、やがてプロレタリア文学と訣別して、空想性の豊かな、静かに瞑想するような詩のなかに自らの個性を発見するに至る。俳句的な観察の影響があるともいわれている。

 男声合唱組曲『若しもかの星に』は、百田宗治の生涯にわたる作品の中から6つの詩が選ばれて作曲され、1978年に初演された。これらの詩の中には、深く思索のうちに沈潜しながら、ときには孤独を、ときには友愛を感じ、ひとのぬくもりを求めることもあれば、折々は愉快に心を踊らせていた詩人のなまの声があふれている。それは男声四部合唱の音色で表現されるにふさわしい。

 4. 母の夢

 文学に入れこんで家族を嘆かせ、故郷である大阪と疎遠になってしまった百田宗治だが、母親はつねに最後まで気持ちの上での理解者であったようだ。ほかの夢の詩で、母とともに寂しい街を歩いていたのに母は後悔してどこかへ行ってしまった、という場面がある。わがままな息子を不安定な道に進ませたことがたえず「あたらしい悔い」であり、それでも結局許すことが「いつくしみ」であろうか。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~koyukai/zwakasimo.html

 

ゆずり葉
ゆずり葉

紀の国  津村信夫

 

 津村信夫  明治42年神戸市生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業。島木赤彦、斎藤茂吉らに傾倒。室生犀星を師と仰いだ。昭和19病没。享年35歳。

 「紀の国」 は父の出身地の和歌山への望郷の歌。 ゆづり葉になぞらえて、父から子へ、子から孫へとゆずりつぐべき故郷の山河への思いを込めている。 

    舟のおじ : 船頭                  (「津村信夫詩集」白凰社 より抜粋)

 

雨後   三好達治 

 

  雨の上がった後、雲の切れ目に見えるその山の神秘的な姿。 その素晴らしさを述べるのに、どこの山とは言わずにその情景をいろいろな角度から描写して、 そして詩の最後にふと振り返ってみれば そこに「鹿島槍」とそっと山の名を配置。 あぁそうか、他の山ではなく、「鹿島槍」の雨後の美しさこそ、この詩の主題だったのだ。

    鹿島槍ヶ岳(かしまやりがたけ)は、富山県黒部市中新川郡立山町および長野県大町市にまたがる後立山連峰飛騨山脈)の標高2,889 m中部山岳国立公園内にある。後立山連峰の盟主とされる。  

    山頂は南峰(標高2,889 m)と北峰(標高2,842 m)からなる双耳峰であり、吊尾根と呼ばれるなだらかな稜線で繋がっている。(Net情報から適当に抜粋

 

 

 

絵日傘  中勘助

 

最近ではすっかり目にする機会のなくなった和風絵日傘。 

  源氏香 : 香道では5種の香木を焚いてその香りを判定する手法があるが、その際5本の縦線を引いてそれに対する横線の加え方で判定を表示する仕方を源氏香という由。(下図) 

  淀の川瀬の水車 : 江戸時代初期に宇治川と桂川の合流地点(京都市伏見区)に築かれた淀城。その川の一角に城内に水を引くための巨大な水車が構築されていて、「淀の川瀬の水車 誰を待つやらくるくると」と俗謡に歌われたという。 中勘助は関東の人だが、比叡山に短期間滞在して「銀の匙」の後篇を書いたというから淀川にも多少はなじみはあったかもしれない。しかしこの詩と「淀」の地名との関連は不明で、単に「くるくると」を表現するためにこの俗謡を借用したものではないかと思われる

                  (Wikipedia 、中勘助詩集などを参考にした)

 

片恋  北原白秋

 

   1910年(明治43年)白秋25歳の時の作品。「ちるぞえな」という俗語を繰り返しつつ洗練された詩になっているとして永井荷風が激賞した由。「恋愛という新しい概念を、西洋の植物や、赤や金という派手な色で歌ったところが、当時としてはかなりハイカラな詩であった」という評もある(川本三郎)。 

  曳舟川は江戸期に用水路として今の葛飾区から墨田区にかけて開削され、周辺にアカシアの並木もあった模様だが、現在は埋め立てられて一部が親水公園になっている。京成線、東武亀戸線に「曳舟駅」があり、スカイツリーに近い。  (朝日新聞記事、wikipedia などから要約)

武蔵野の雨  大木惇夫

 

  群鳥を追いながら  どの土地を濡らしにゆく

    月の夜ごろを掠める雨  櫟のにおいのぷんとする雨  武蔵野の雨

 

  皆さんは 「武蔵野」 という言葉にどのような語感をお持ちでしょうか? この短い詩に何を感じるでしょうか?  

  この詩の背景について解説した記事は無いものかとネットでいろいろ検索しましたが殆ど何も出てきませんでした。 おそらく解説を必要としない詩、各人が自分の感性で感じるままに味わう詩、ということだろうと思います。

  なお 「群鳥」 は鳥が早朝むらがって巣から飛びたつ様から、古くは 「朝」 につながる枕詞として使われた由。 この詩では 「夜ごろ」 ですからちょっとニュアンスが違うようです。

 

  作詞者 大木 惇夫 明治28年 - 昭和52年。 広島市出身、20歳で上京、小田原で文筆活動。 詩人(白秋門下)・翻訳者・作詞家と多面的に活動。 児童文学作品や「国境の町」(東海林太郎)などの歌謡曲、合唱曲、軍歌、社歌、校歌、自治体歌などの作詞も多いが、太平洋戦争中の多くの戦争詩のために戦争協力者として戦後の文壇から疎外されたと言われている。 反戦・平和の歌「カンタータ 『土の歌』」 の作詞者でもある。

 

                               
                               

かきつばた  北原白秋

 

   北原白秋は、水郷の流れに咲く「かきつばた」を、柳河に住む美しい「ONGO」と

だぶらせている。昼間ONGOに抱かれた「かきつばた」はONGOに美しいかおりを

与えている、しかし夜になると美しかったかきつばたも萎れて、ONGOと共に

泣き明かすしかない。そのバックには、三味線と吐息のような音色が流れている。

  古く廃れゆく町、柳河の表面の美しさと、裏の切なさを、かきつばたに例えて歌っている。鳰(かいつぶり、にお)の頭の赤い明るさも水に潜ってしまえば、すぐ消えてしまう。ONGOの美しさも、夜になればしおれてしまう。

  柳川は明治になって汽車路線から外れて、昔の賑わいをなくしつつあった。 

   詩の最後のカッコ内2行は柳河の童謡から用いたとも言われる。 

  ONGO : 良家の娘

   (http://www55.tok2.com/home2/kimiaki/link/yanagawa から勝手に要約)

 

 

石家荘にて  草野心平

  

  草野心平は193835歳のとき、中国北部を大旅行し、北京南西の河北省の石家荘の街を訪れた。そこは前線に近く、兵隊を相手にするために、客商売の女や商人たちが集ってくる街であった。

  「石家荘にて」の心平は、18歳の娼婦と部屋の中で向い合っている。遠い稲妻がひかる。夜全体が白く明滅しているようだ。月蛾すなわち娼婦たちの、愛と憎しみが分かち難く交差している石家荘の街。この詩には大陸放浪へのロマンチシズムがあると言われている 

  石家荘 : 1937年の盧溝橋事件のあと、日本軍が占領し終戦まで続いた

        北京市の南西約200Km 現在河北省の省都 

  サガレン : サハリン(樺太)、  月蛾(ゲツガ): 娼婦

    (http://www8.plala.or.jp/JCAOTARU/memo-kusano.pdf から勝手に要約)

 

月蛾
月蛾